AI社会で生き残る道

職業不詳、ただのカードゲームオタクが何を語り出すのかと思えば、急に「AI社会」などという。

はたして権威や専門性の誇示無しに語り得るテーマなのか?

最初に今自分が感じていることをまとめると

・業種や仕事がAIによって駆逐されるのではなく、初級者で留まる人達が駆逐される

・専門家の価値は上がる。しかし1つの専門分野を持つだけの人は価値が下がる

これは現段階での自分の結論であり、目指すべき指針でもある。

そして世の中の多くの「AI社会に求められる事」という言説は、経験なく語られる浅い内容に思えてならない。

対人スキルとか、AIリテラシーとか分かったような分からないようなことを繰り返し言う。きみ、AI使ってないでしょ?

なぜこう思うのか、順に語りたいと思う。

AIから得たもの

カフェで優雅な休日を過ごしていると、こんな会話を良く聞く。

「ChatGPT使ってるんですけど、全然ダメっていうか、役に立たないですよね」

「確かに~」

僕は悦に浸りながら、カフェオレを口にする。

(ああ、使いこなせてない人達なんだね)

AIを使う上で非常に大きな勘違いが、『自分の能力を超えた何かを生み出す』というもの。

たぶん現段階でAIで創造は無理。

理屈はともかくとして、何なら出来るのか、と考えたときに

『時間を掛ければ自分に出来ることを、短い時間で成し遂げる』

この使用目的に異論を唱える人は少ないだろう。

例えば“自称”科学者である僕は、仕事の都合上、論文検索を良く行う。

自身の仕事内容の検証、新しい提案、職場での勉強会など客観的なデータを用いて話す必要があるため。

かつては本やネットなど駆使して原著を探し、孫引きして次なる論文を発掘する、かなり骨の折れる作業だった。

しかし最近の文献の検索は違う。

AIを使用して具体的なテーマや方針に関連する論文をピックアップさせる。

そして原著に目を通し、目的のものであることを確認する。

信頼のおける一次情報であると確信したならば、AIを用いて要約する。

しかし、一方で時間があるときなどにはAIに頼り切らず細かな背景なども確認して知識は蓄える。

原著に目を通すのがミソで、しばらく前のChatGPTはかなりの頻度で架空の論文を持ってきた。

今はだいぶ減ったとは言え、やはり一定の頻度で間違いや実在しない論文を挙げる。

ここで一次情報に当たらないと、嘘から始まる論理にすっかりと騙されて、成果を上げられない。

そして安易にAIを使えないものと決めつけてしまうだろう。

専門家の価値

AIの持ってきた情報が正しいかどうか、どうやって検証するのかを考えたことがあるだろうか?

正誤や善し悪しの判断が出来なければ、事実ともフィクションとも言い切れず、他人様に提示する価値がない情報となる。

情報を正しいものであると証明できる能力、もしくは正しさを証明できる方法を知っていることで、AIの生み出す情報に価値を見いだすことが出来る。

専門家はその分野の歴史的背景、現在の問題点、どこに信憑性の高い情報が集まるのかを、積み上げた知識と経験から○×を付けることが出来る。

情報の判断を出来る能力を持つ人は、AI社会において最も得をする領域の一人である。

逆に初学者や発展途上にあるものは苦しい立場になる。

なぜならば彼らはAIの出した答えに○×をつけられないし、検証も出来ない。

入力する情報の質が低ければ答の質にも相当なバラツキが出てしまうために、使えないものと誤認したり、そのまま使って恥をかく。

そして初学者が専門家の手伝いをするというかつての業務は今後は不要になってしまう。専門家はAIに協力を仰いだ方が早いため。

専門家のアドバンテージ

実は専門家がAIを使う利点は他にある。

専門家というのは一度到達して終わりではない。

経験や復習をしなければ能力を維持できないし、知識をアップデート出来なければ名ばかりの専門家、実質初心者になってしまう。

専門性の維持には一定のコストがかかるのが常だが、AIは革命をもたらしてくれた。

先述の通り、情報収集の効率が上がったことで維持にかける時間を短縮できるようになった。

これによって時間的な余裕が出来た。

ここで別の専門性を極める可能性が生まれた。

これまでは1つの専門性を極めて、“その道の人”としてアピールすることが最適な立ち回りだったと思う。

一方で1つの専門しかない者は、しばしば凝り固まった思考からバイアスに吞まれるリスクがあった。

心理学者のアブラハム・マズローに言わせれば「ハンマーしか持たないものは全てが釘に見える」

とはいえ昔はマルチに活躍すると、どうしてもどこかで粗が目立ってしまうか、一握りのスーパーマンしか両立を成し遂げられなかった。

しかしAIを駆使した専門家は、自分の専門分野を効率よく維持・成長させ、余力で別の分野の学習をすることも現実的になった。

広く深く知ることで、新しい視点が持てるようになり、結果として元の領域においても他の人にはない力を発揮できる。

専門分野は複数持つ時代なのである。

浮いた時間でやるべき事

ここにも多くの勘違いがあると思う。

例えばディズニーランドのアトラクションをAIが要約した文章を読んで、誰かに楽しく語れるだろうか?

待ち時間での苦痛、不意のアクシデント、その場に居合わせた者しか味わえない感動があるはず。

そういった心の動きや生の経験を僕らは聞きたいのである。

だから新たな分野を学習するために、AIを使いすぎてはいけない(補助的にはあり)。

結局、AIで語られる内容からはAIが出来ることしか学習出来ない。

僕らは原典やオリジナルに触れる時間を増やさなければならない。

例えば小説家になりたいならAIやSNSで効率化された学習法法を実践するのではなく、ヘミングウェイを読むのである。

例えば科学者になりたいなら、AIに要約させた論文ばかりを読むのではなく、原著を読み、自分なりに解釈する。

また専門家の最も大事な特性は、“直観”を磨くことにある。

作家のマルコム・グラッドウェルの言うところの『第1感』、行動経済学者のダニエル・カーネマンの言う『早い思考』である。

専門家は論理的な思考を積み重ねて解を導くのではなく、しばしば論理を飛躍して直観的な答えを瞬時に導く。

答えを出してから、後付けで理由を説明したり検証する。

おそらく一万時間くらい真剣に向き合った分野だからこそ発揮できる能力で、この直観こそが専門家である証だと僕は思う。

これを磨くには効率化された教材ばかりでなく、泥臭く面倒なことを淡々と続けたり、無意味とも思える内容から急に輝きを見いだしたり、幅の広い経験がものを言う。

この経験を積む時間を惜しめば、試験をパスしただけで深みのない、紛いものの専門家が完成する。

それでは結局のところAIに置き替えられてしまう。

AIによって効率化した後は、非効率な経験のためにたっぷりと時間を割くべきなのだ。

だから僕は旧時代の遺物であるブログという媒体を書き続けていたりする。

今後の社会の階層

既に起こりつつあると思うが

①複数の専門性を持つ人
②単独の専門家
③AIそのもの
④初学者(専門性を目指す人)
⑤初学者(勉強しない人)

になると思う。

②単独の専門家と③AIそのものは、もしかしたら順位が逆転するかもしれない。

というより、半端な専門家は確実にAIよりも下の階層になるだろう。

かつて10人の専門家で達成した仕事は、2-3人で出来てしまうようになる。

そうなると突き抜けられなかった人達はAIに置換されていく。

僕らは上級者を目指さなくてはならない。

更に、それを複数の分野で掛け持ちしなければならない。

そして、AIはそれを大いに手助けしてくれる。

AIに仕事を奪われる未来を嘆くよりも、AIを味方につけて、新たな自分の強みを育てていく方がずっと楽しい――僕はそう思っている。

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