『沙耶の唄』で描かれる狂気や愛より怖いもの

原作は未プレイ。小説を読んだ。

ホラー、純愛、狂気などネットにありふれた言説を今更述べても仕方ないので、それとは違う僕の感じたものを言う。

この物語には『男は①自分を認めてくれて②性的接触ができる③可愛い女の子がいれば満たされる』という欲望の原形質が描かれている。

多分これは三種の神器と言っても過言ではなく、過不足無い本質。

そして三つが満たされた時に、男はどこまでも堕ちることが出来るのではないか。これが主題に思えた。自分が法や倫理を侵すことは勿論、誰かに自分が狂わされてもハッピーエンドと感じてしまう。

さらに三種類の要素のうち、二種類だけ満たす場合はどうなのか?

作中では②性的接触ができる③可愛い女の子が登場して、主人公はその女の子を自分と世界の境界線の自分側に位置づけた。他の二要素を満たすキャラクターは作中には存在しないが、恐らく3つのうちの2つを満たせば“こちら側”という認識に異論は少ないと思う。

しかし三要素と二要素のキャラの扱いには明確に差がある。

短い物語の中に、そんな所まで描くところに作者の“抜かりなさ”を感じる。

もちろん欲望が決して悪いわけではない。

ただ読む人は、こういった人間の暗い部分を認められるのか?という問題はある。

沙耶の唄の原作の発売時期は、いわゆる泣きゲーと呼ばれるギャルゲー(18禁含む)が流行し、特にCLANNAD以降は顕著に、オタク達は「自分は清廉潔白で、純粋な愛を求めている」と声高らかに宣言し出した。

ちなみに自分を振り返ると、おそらく童貞の時に沙耶の唄を読んだら、欲望なんて一切触れずに、愛の形のみを議論しだしたと思う。つまり性行為をしたから好きになったとは決して言わないし、暴力性を純愛で覆い隠してしまう。

良くも悪くも大人になった今では、都合の良い女だから好きになっただけじゃん、と冷めかねないが、この作品はちゃんとその先にもテーマを用意してあって驚いてしまった。

愛の物語というよりも、愛に見せかけた欲望や人間の尊厳を問う場所。

主題の明示のための舞台装置として徹底的に可愛らしく描かれた沙耶に読者が好意を抱き、倫理や法に縛られず主人公が堕落していく様子に共感してしまった時、僕らは見事に作者の罠にハマっている。

「男がどこまで堕ちられるか」を、プレイヤー自身の共感という形で試してくる残酷な鏡。

少なくとも僕はゾッとした。

グロテスクな五感に訴える描写が目立つが、僕らの内側にあるものを浮き彫りにしてしまう、精神的なホラー要素を存分に含む怖い話だった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました